
昭和40年代、50年代の日本は街に子供が溢れていました。しかし、今の日本の街に溢れるのは中高年と老人ばかりです。子供がいない国の光景に寂しさを抱いている日本人は沢山います。
満田もその一人でした。子供を見かけることが少なくなった日本に、寂しさと悲しさ、もどかしさを感じていました。そんな気持ちでスラムを訪れると、あまりの子供の多さにビックリし感激しました。
子供がそこら中を走り回っているのを見るだけで、生きている実感をひしひしと感じました。満田が交際していたフィリピーナの子供が、ヨチヨチ歩きで顔を出します。
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フィリピン・スラムの子供たちに元気を貰う満田
子供は満田に抱かれて大喜びしています。無邪気な子供の表情は、満田の心に刺さりました。満田は養子に出された子供でしたので、他の子供とは少し違う感情を持っていたのです。
フィリピンのスラムには親を持たなかったり、貰われた子供が沢山います。言葉が話せない頃に私生児になる子供は、自分の相似形ではないかと。
満田はフィリピンのスラムに自分の場所を見つけたのです。
このスラムを体験した後、満田はフィリピン現地にすっかり嵌りました。フィリピンに来るたびに日本に居る時の自分は仮の物で、フィリピンにいる時の方が本物に近い気がしていました。
満田の稼業が疎かになるのに反比例して、マニラで金を使いまくりました。満田と交際しているフィリピーナの要求はどんどんエスカレートします。
「こんなスラムのような場所から出たい」とフィリピーナは満田に頼みます。満田は断り切れず、フィリピーナのためにアパートを借ります。「パパ、車が欲しいわ」と言われると、中古で車を買い与えます。
しばらくすると、「新車が欲しい」と言い始めます。新車の車を300万円で買い与えました。「アパートじゃ狭いから自宅が欲しい」と言うと、カビテに土地と家を買い与えました。
建売住宅の内装と外装を変え、500万円ほど使いました。ピンク色のフリルが沢山ついたカーテンで家中を飾りつけ、可愛らしい家具を買い、フィリピーナの物欲を満たす努力をしました。
これで満田と別れるようなことがあっても問題ありません。土地や家はフィリピーナの名義で買っているからです。満田はある程度予測はしていましたが、仮に全部売り払われたり、持っていかれても良しと考えていました。
フィリピーナの故郷はサマール島の小さな漁村でした。サマールはフィリピンでもかなり貧しい島と言われていて、島の人は現金収入を得られず苦しい生活を送っています。
フィリピーナの父親は村長ですが、貧しいことに変わりはありません。満田は彼女の父親のために家を建てました。また、小さな漁船を三隻も買い、人に貸して現金収入を得られるようにしました。
村には教会まで寄付しました。いわば満田教会です。それほどお金を使っているのに、満田はサマール島を一度も訪れたことがありません。満田は、そういう性分なのです。
続く
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