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No.1 フィリピンで料理店をオープンさせる事を夢見た55才

「今思えば、あれは禊だったのかもしれません。日本にいた頃にまとっていた上着を脱ぐっていうか…。フィリピンで生きる儀式だったのかもしれませんね。」

S氏(年齢55才)は居酒屋の開店前のテーブルで、お茶を飲みながら懐かしそうに話します。S氏がマニラにやって来たのは、2000年初頭でした。

日本では関東地方のホテルで料理人として働いていました。S氏は和食を担当していました。調理人の夢といえば自分の店を持つということです。しかし彼の母親と同居しているうちに、機会を伸ばしてしまいました。

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フィリピンなら日本料理店を成功できるかもしれない

S氏は一人っ子でした。父親はS氏が小学生の頃に病気で他界しました。そ入れ以来、母親は父が経営していた小料理屋を1人で切り盛りしました。S氏が店を継ぐ話は何度もありました。

ただお店はこじんまりしていて、さらに常連客だけで保っているお店ですから、S氏の手助けは必要ありませんでした。

母親はS子を育てるために必死に働きました。幸い体は丈夫で、少々の無理が出来るほどでしたが、10年前に突然倒れてしまいます。原因はクモ膜下出血でした。

常連客からS氏に連絡があり、母親が倒れたのを知りました。それからしばらくすると母親は亡くなりました。

彼は母親が経営していたお店を継いで規模を大きくすることも考えました。しかし彼の心にはフィリピンのマニラへの思いがありました。彼は年に2回ほどフィリピンを訪問していました。

フィリピンのマニラにS氏の知り合いがいて、彼は不動産会社を経営していました。S氏とマニラ在住の社長は酒飲み仲間でした。

二人で連れ立ってマカティやマビニなどの料理店やKTVを巡っていました。1軒目はいつも居酒屋で食事をしました。その居酒屋を見て「自分ならもっと上手くやっていける」と呟きました。

日本食レストラン・フィリピン

フィリピンのマニラでは日本のように材料が簡単に手に入る環境ではありません。それを差し引いても味付けがなっていませんでした。

そもそも味が濃すぎますし、だしの使い方も未熟で、味に深みがありませんでした。そんな話を社長としていました。「まぁ、フィリピンは外国だからね。少々味が悪くても、お客は来てくれるから。

日本とは競争のレベルが全然違うんだよ。Sさん、そんなに言うんだったらフィリピンで店を出してみれば?条件の良い店舗があったら紹介するよ」

社長はS氏に対して冗談半分、本気半分で話しました。S氏の母親が他界し、自分で決断する立場になると、マニラに住む社長の言葉が頭をよぎりました。

S氏はフィリピン、フィリピーナをこよなく愛していました。ですから、フィリピンなら店をやっていけるかも知れないと感じていました。

母親が亡くなって49日が過ぎた翌月に、S氏はフィリピンのマニラに向かいました。何らかの決断をしてマニラに向かったわけではありませんでした。

料理にはそれなりの自信があるS氏です。

しかし、料理の腕と店を経営するのは異なる次元の話です。タガログ語、英語とも大して話せませんから、フィリピン人従業員に指示も出せません。

しかし、マニラの滞在中に話が進んでしまいました。不動産屋の社長が話しを持ち込んできたのです。それは1軒の居酒屋を、現状のまま引き続くという話でした。

続く

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